高次の存在 /アブダクション考察

直射日光が降り注いで光と影の明暗がくっきりと分かれる地球の環境を反映しているかのように、この惑星の人々には極端な二分化を好む傾向が見られます。「波長の低い肉体など持たない高次元の光の存在」からのチャネリングメッセージを信じるスピリチュアル系の人たちと、人間や家畜などを誘拐(アブダクション)して混合種(ハイブリッド)を作り出す奇怪な容姿(グレイ、カマキリ型、爬虫類型)のエイリアンを信じる人たちが、互いを「お花畑」「新興宗教信者」かたや「低レベルの悪魔的宇宙人」「地球の軍部の陰謀」などと否定し批判し合っています。

どちらも現実を見ていないと私は思います。物事の表層しか見ていないのです。ただそれは、仮想敵国を作り出して国民を戦争(殺し合い)に駆り立てる指導者のように、善悪の二極化をすることで偽りのカリスマ性を示して人々を導こうとする者たちの常套手段であり、自己承認欲求を満たして、恐怖心と使命感で駆り立てることで冷静な判断力を奪う策略でもあります。

光のように見える存在は、確かに我々のような肉体を持っていなくとも、波長が違う肉体は、あたかも形のない光だけのように見えます。「光」=「体がない」とはならないのです。肉体を持つ者どうしでも、相手がまぶしいほどに光り輝いて見えることもあるでしょう。また、「地球外生命体」=「地球人と同じ姿であるはずがない」という発想も、自然界の欠片も理解できていない現代科学の未熟な見解に過ぎません。異星人が地球人の祖先であろうとなかろうと、万物が秩序を保って存在する宇宙には普遍の生命形態があるという見方も可能です。

事実として確認できることは、人間型(ヒューマノイド)の友好的な異星人が共通して語るのは「我々は地球人を誘拐している者たちとは違う。彼らにはそのような行為をやめるように説得しているが強制はできない」ということ。そして人間型の異星人は人工生命体(バイオロボット)の存在について詳細に語りたがらず、その危険性だけを遠回しに警告しているということです。

この宇宙を貫く法則として、「他者の自由意思を妨げるような干渉はしない」、「自ら創造したものを決して壊してはならない」というものがあるといわれますが、私はそれらは真実だろうと心の深い部分で感じます。多くの遭遇体験者の調査や自身の幼少時からの体験から、人間の姿をしていない地球外生命体は、どれほど精神的、知的に地球人を凌駕するレベルに達していても、それらは太古の昔に人間型の異星人が創造したバイオロボットだと私は思っています。ロボットと言っても金属的なものではなく生命体そのものであり、生殖機能すら備え、知的レベルの低い地球人を実験動物のようにしか思っていないようです。しかし、彼らは自らの創造主である「人間」に近づくために、地球人のDNAを必要としていると思われます。

現在の地球の科学者は「人工知能を備えたロボットが人間にとって危険な存在になることはない。そのようにプログラミングされている」と保証していますが、太古の異星人たちもそう確信していたものの、「憑依」という現象を想定していなかったといいます。しかしその危険性に気づいても、創造したものを破壊することはできない、創造者に近づこうとする意志を妨害することは許されないという問題に直面し、地球人に対して歯切れの悪い説明しかできない状況にあります。さらにいえば、いわゆる捕食性の生命体は自然界に最初から存在したものではなく、太古の人間が創造したものであろうと私は考えています。

最初の話に戻れば、地球人に友好的な異星人と、地球人を誘拐する昆虫型や爬虫類型のETの双方に私自身は関わってきているように感じています。もし生まれ変わりがあるのなら、私は創造してはいけなかったバイオロボットを生み出してしまった太古の異星人の一人だったのかもしれない、それゆえに地球人を誘拐してモルモットのように扱っている彼らの存在に憐れみと責任を覚えてしまうのかもしれないと漠然と思ったりもします。

けれども私はロボットや機械全般への興味が薄く、自身がそんな前世を持っていた感覚を持ちませんが、ある日の明け方に見た夢の中で、未来社会のような場所で、家庭用のAIロボットの修理をある博士に私が依頼していた光景を見ましたので、もしそれが過去世の記憶の断片なのであれば、私はロボットの利用者、つまりその恩恵を受けていたということ、あるいはそういう社会の一員としての責任(カルマ)を負っているということなのかもしれません。言われてみれば、感覚的にはそのほうがしっくりきます。

いま、地球人は人工知能(AI)とクローン(DNAの複製)技術によるバイオロボットを本格的に生み出しつつある時代を迎えています。今こそUFOと異星人の問題を、天使と悪魔の対立を説くチャネリングや、悪の宇宙人と政府の密約といった善悪の二元論といった、地球人の習慣的思考でとらえることから脱却して、真実に目を向けるべき時なのですが、真実という言葉も偽りの教えによって使い古されたものとなっています。そして真面目な探求者の多くも、その真の動機は自身の願望に合致する真実を見出すことにあり、都合が悪い結果には目を背けたり、事実を捻じ曲げたりします。大事なことは、たとえ自分にとって受け入れがたいことでも、真実を最優先する覚悟と勇気をもつことです。

真実を求めることとは、分からないままの状況に耐えて進むことです。分かったふりをして偽りの答えを示す者たちがUFO・スピリチュアル界にあふれているのは、自分がワクワクする答えを信じて早く楽になりたいと思ってしまう安易な気持ちの人たちが多いからです。

「狭き門から入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない」(マタイ伝)